小学生がたくさんの荷物をかかえて、学校から帰る様子を目にした。黄色い帽子から少し日焼けした顔が汗ばんでいるのが見える。そうか、夏休みになるんだ。そういえば、町内の回覧で7月18日は終業式だと書いてあった。
50年前 そう半世紀前 自分が小学生だった頃、終業式その少し1週間前あたりはうきうきしていたなと思い返した。さあ何をしようかと思い、だけどその前に宿題がある、課題研究は早めにしないといけないなど計画を立てる喜びと「夏」のひびきに期待していた。
私の家は父が外国航路 いまは マルハ というが、大洋漁業の船員 通信長だった。ほぼ父はいない生活で、一人っ子であった私は、母と二人。今になって思えば自由にすごしていたんだと思う。夏休みになると、午前中は宿題をしたり、教育テレビの夏休みに役立つ番組をやっていたのでそれをみたり、週に何回かピアノのお稽古や、そろばんのお稽古に行ったりしていた。それが無いときは、ほぼ母の行くところにほぼついて行っていた。
買い物といって知り合いの店に寄る。そこでだいたい母は話し込み 商品を勧められる。そのそばで私は人の話を聴きながらずっと待っていた。母が美容院にいくとそこでずっ待っていた。ときには、そこのオーナーが近くの喫茶店に昼ご飯を食べに連れて行ってくれた。そして、あれやこれやしているうちに夕方近くになる。「今日はもう晩ご飯外で食べて帰ろうか」と言う。 あるときは、「白十字」という昔ながらの喫茶店に言って食事をして帰った。その「白十字」という店は今はないのだが、商店街の一角にある店でパチンコ店の隣にあり、階段をのぼって2階にある店だったことは覚えている。しかし何を食べたか覚えてはいないが洋食であったことは確かだった。また、町中華もよく食べに行った。そこは家族経営のお店で私の3歳年上のいとこと同級生の子供がいた。扉を開けると店の天井近くに扇風機が回っていて、そのそばにTVがある。床はセメントで決しておしゃれではないが、焼きめしが美味しかった。
夏の終業式の頃思いだすのが、「つるや」で食べたうなぎだ。その店は商店街の中では結構大きなお店で、主に日本食や定食、うどんなどを出す店であった。その光景は今でもはっきり覚えているが、店にはいるとすぐにいけすがあり、3階建ての店であった。1階は座敷はなく、4人ぐらいが座れるテーブル席が複数あった。そこで 夏のはじめ、土用の丑の日うな丼を母と食べていた。
夏休みの始まりは、還暦を過ぎた今でも嬉しい。特に何があるわけではないのだが、町並みをみても、TVをみても夏の輝きがある。今日も銭湯にいくと、小さい子供を連れた家族連れとその親戚と思われる何人かが来ていた。母親が「明日 海にいくよ」「さあ上がって食べにいくよ」と楽しそうに話している。“わあ 暑いだろうな““私は海はごめんだな“と思いながら、電気風呂に入った。
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